宮城県亘理郡亘理町

川口神社

かわぐちじんじゃ

亘理城主伊達成実(だてしげざね)の勧請と伝えられる川口神社は、航海安全大漁満足、五穀豊穣、健康安産、眼病平癒の神社として信仰を集めている。春の例祭では男たちが神輿(みこし)を担いで「よんにょす!」という独特のかけ声をかけながら氏地を巡る。東日本大震災の津波で大きな被害を受けたが、まつり応援基金で3基の神輿を修理、大太鼓、獅子頭、社名旗、法被なども新調し、祭りが復活した。しかし、多くの氏子が戻るにはまだまだ時間がかかりそうだ。

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◎「よんにょす!」のかけ声で神輿渡御

 宮城県亘理(わたり)郡亘理町は、阿武隈川が太平洋に注ぐ河口にある。東日本大震災では306人の町民が死亡または行方不明となり、大津波による浸水は亘理町の面積の47%に達した。とりわけ荒浜、大畑浜など沿岸地域は壊滅的な被害を受けた。その荒浜地区に、阿武隈川河口の守り神と言われる川口神社がある。
 川口神社は、航海安全大漁満足、五穀豊穣、健康安産、眼病平癒の神社として信仰を集めている。春の例祭は4月20日直近の日曜日に行われる。朝9時半に当番地区の男たちが神輿(みこし)を担いで出発、「よんにょす!」という独特のかけ声をかけながら氏地を巡る。渡邊光彦宮司(67)も神輿とともに歩き、午後4時ごろまでに約120軒の家の前で祝詞をあげる。

渡邊光彦宮司

◎まつり応援基金で3基の神輿を修理

 平成23年(2011)3月11日、渡邊宮司は祭りに備えて獅子頭、装束、太鼓などを取り出し、社務所に並べていた。そこへ地震が発生、すぐに避難し、津波には巻き込まれずにすんだ。それから避難所生活が始まった。地震から1週間後に様子を見に行くと、文政8年(1825)に建てられた鳥居は健在だったが、社務所や自宅は津波に襲われ、瓦礫(がれき)や泥で中に入ることもできない。神輿堂にあった3基の神輿のうち中小の神輿は流されて行方不明、1トンある大神輿は横転し、神輿堂の壊れた屋根を支えていた。昭和52年(1977)に床を高くして鉄筋コンクリートで再建した本殿だけまったく浸水していなかった。
 5月の連休のとき、小神輿が神社の50メートル先で見つかった。その後、中神輿も見つかった。そこで、日本財団のまつり応援基金を受け、3基の神輿を修理し、大太鼓、獅子頭、社名旗、法被なども新調した。「祭りは神社の中核です。この祭りが地域に密着していることを日本財団のみなさんに理解してもらえて、本当にうれしかったですね」。
 氏子の青田和宏さん(59)も言う。「祭りは地域の大切なコミュニケーションの機会です。だから途切れさせてはいけません」。

手水舎

◎神輿は神社の宝

 平成24年(2012)4月には2年ぶりに例祭を行い、漁協と4つある仮設団地をまわった。神輿は修理中なのでよそのものを借りた。太鼓の音が聞こえると仮設団地の人たちが集まってきて、神輿に向かって手を合わせたり涙を浮かべたりしている。渡邊宮司はその光景を見て、「心にズシンときました。これからも続けなくちゃ、とあらためて思いました」。
 神輿を修理しているのは山形市の株式会社小嶋源五郎である。作業にあたっている田中一義さんは言う。「中小の神輿はかなり壊れていましたが、手の込んだ立派なものでした。神輿は神社の宝ですから、いいものになるように、そして元と同じものになるようにやっています」

神輿渡御

◎川口神社は荒浜の人の心の拠り所

 川口神社の被害も甚大だったが、渡邊宮司は氏子の人たちの被害に心を痛める。「この地区では多くの家で家族が犠牲になり、9割以上の人が家を流され、仮設住宅で暮らしています」
 青田さんも仮設住宅で暮らしている。「震災のときは消防団員で、津波が真正面から来るのを見ていましたし、目の前で人が流されるのも見ました。でもね、私はここを離れたくないんです。海が好きだし、川口(神社)さんもあるし。川口さんは荒浜の人間の心の拠り所なんです」
 とは言え、前途は厳しい。復興計画で川口神社の前の堤防は7.2メートルの高さにかさ上げされ、その内側に車道と幅2メートルの歩道がつくられる。そのため川口神社も境内が120坪削られ、大津波に耐えた鳥居も撤去させなければならない。
 さらに深刻なのは人の問題である。祭りのときに協力してくれる氏子は800軒余りあったが、現在地元に残っているのは数十人。仮設住宅に住んでいる人たちの4、5割が町外移住を考えていて、町内に残る人たちも、多くは山手の高台での新築を希望しているという。そうなると、神社は残っても、氏子は数えるほどしかいなくなる。逆に、祭りを続けることで氏子が戻りやすくならないだろうか。本当のまちの復興につなげていくためにも、渡邊宮司や青田さんたちが果たす役割は大きい。
(原 章)

春の例祭2

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