宮城県牡鹿郡女川町

女川潮騒太鼓轟会

おながわしおさいだいことどろきかい

東日本大震災から約2カ月後、「太鼓」なんて口にできないと思っていた女川潮騒太鼓轟会代表の齋藤成子(さいとうしげこ)さんと事務局の鈴木真紀さんは、突然聞こえてきた太鼓の音に驚き、その音に向かって駆け出した。ばちを渡され、二人が涙をこぼしながら演奏を始めると、聴いている人たちも涙ながらに拍手喝采していた。

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◎「太鼓」なんて口にできなかった

 女川潮騒太鼓轟会は平成5年(1993)に誕生した。もともと公民館事業の1つとして太鼓講座が開かれ、その受講生が中心になってつくられた。女川町の秋刀魚(さんま)収穫祭、水産祭りなどで演奏するほか、平成7年(1995)からは小中学校の総合学習で太鼓を教えてきた。
 東日本大震災前、女川町は人口約1万人の町だったが、震災で800人以上の方が亡くなり、約7割の家屋が失われた。轟会は震災前には30名ほどメンバーがいたが、現在は約20名。初代会長も行方不明になった(平成24年9月にご遺体が確認された)。
 震災前、練習は女川町生涯教育センターの2階大ホールで行われ、太鼓もそこに置かれていた。同センターは津波で4階まで浸水し、38台あった太鼓すべてが泥まみれになった。
 轟会の代表齋藤成子(さいとうしげこ)さん(48)の自宅は2階の床下1センチまで津波に浸かったが、2階はかろうじて住める状態だった。しかし齋藤さんは1カ月以上引きこもりになった。「自分の家族が無事でも、親戚や友人の家族の中には亡くなったり行方不明になった人が何人もいます。うちの家はいちばん奥のほうなので、流れてきたご遺体も多い。『太鼓』なんて口にできる状況ではなかったのです」。

女川町生涯教育センター

◎太鼓の音に向かって駆け出した

 震災の年の5月6日、齋藤さんと事務局の鈴木真紀さん(36)が轟会をどうするか話し合っていると、突然、太鼓の音が聞こえてきた。ふたりは驚き、その音に向かって駆け出した。避難所の前で、神戸の太鼓衆団「輪田鼓(わだつみ)」の人たちが演奏していた。阪神淡路大震災に遭った輪田鼓は、少しでもそのときの恩返しがしたくて東北を訪れ演奏していたのだ。齋藤さんと鈴木さんはその演奏を聴いて涙があふれた。すると、町の人たちが輪田鼓の代表田中嘉治(よしはる)さん(60)にお願いした。「この人たちの演奏も聴きたいので、太鼓を貸してあげてください」。田中さんたちは快くばちを渡した。
 「二人が涙をこぼしながら演奏を始めると、聴いている人たちも涙ながらに拍手喝采していました」と田中さん。齋藤さんは、「このとき力をもらいました。みなさんがそれほどまで思ってくれているのがうれしかったし、自分たちがへこたれていてはだめだと思いました」。鈴木さんも、「ばちを渡されたときは迷いましたが、自分たちの演奏で町民の方が喜んでくれて一瞬でも笑顔になってもらえたことがすごく励みになりました」。このとき演奏したのは『躍動』だった。20年近く小中学校で教えてきた曲だ。

救出された太鼓を洗う

◎「エア太鼓」で練習を始める

 翌日、子どもたちを避難所横のグランドに集めた。半分の子どもたちはひざ打ちをしてリズムを叩き、半分は空のペットボトルをばちの代わりにして「エア太鼓」で練習を始めた。
 5月になり、ようやく生涯教育センターから大半の太鼓を取り出すことができた。生涯学習課からは、太鼓を預かる場所はないので持って帰ってほしい。あとはすべて轟会にお任せします、と言われた。

轟会

◎太鼓が支えてくれた

 5月30日、被災地の太鼓グループを回っている石川県の浅野太鼓の人が訪ねてきた。初対面だったが、中太鼓9台と桶胴(おけどう)太鼓1台を無償で修理してくれた。残りの太鼓はすべてまつり応援基金で修理することができた。すべての太鼓がそろった平成24年(2012)2月11日、みんなで演奏できる喜びをかみしめた。
 「太鼓がこんなに自分たちを支えてくれていたんだとあらためて思いました。太鼓を通して、たくさんの子どもたちとかかわっていられるのも幸せなことです。こうして太鼓を続けていけることへの感謝を忘れず、地域に根差し、少しでも地域の復興の役に立ちたいです」と齋藤さんは力を込めて言った。
(原 章)

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